青い空に、月は見えない
隠れるように、この場所で
たった一人、待ちわびて
昼咲月見草
照りつける日差しの下、私はホースを片手にぼんやりとテニスコートの方を眺めていた。
夏休みなのに、それを感じさせない校内。
校舎の周りは、明るい表情をまとった生徒達で溢れている。
テニスコートから目の前の花壇へと視線を移し、私は踏んでいたホースの根元から足を外した。
その途端、せき止められていた水がホースの先から溢れ、土や花を色濃く染めていった。
花壇への水やりは美化委員の仕事。
部活に所属していない私が、夏休みにわざわざ登校しているのは、週に二度周ってくる水やり当番のせいだった。
目の前の花壇で、水滴を纏いながら緩く揺れているのは昼咲月見草。
桃色の可憐な花だ。
隣の花壇には打って変わって、背の高い向日葵が植えられている。
太陽に向かって背筋を伸ばす向日葵の姿が、あまりにも堂々として見えるから、
その隣に咲く桃色の花が、なんだか不甲斐無く感じられる。
私はスカートの裾を片手で押さえながら、花壇の前にしゃがみ込んだ。
桃色の花は、まだ頼りなさ気に揺れている。
ため息を溢せば、またその風に揺れる、桃色の小さな花。
(今咲いて、どうするのさ――――――)
月の無い空に向かって。
『月見草』のクセに頭に『昼咲』なんてくっつけて、あまりにも頼りないから、私は放っておけない気分になる。
太陽が沈むまでの何時間も、桃色に染まって待ちわびて。
淡く光るその姿も、雲に隠れれば見えなくて。
それでも待ち続けるの?
聞いても、返ってくる言葉なんて無い。
昼咲月見草が秘める言葉は、『無言の恋』。
ただ今日も、変わらず桃色に染まるだけ。
水やりもすっかり終わった花壇の前から立ち上がって、私は蛇口を閉めに水道まで歩いた。
その途中、テニスコートの方へ目をやれば。
私のお月様は、今日もフェンスの向こうに少しだけ。
隙間も作らないギャラリーの向こうに、少しだけ。
*
八月二週目、お盆で田舎に帰ると言い出した後輩の代わりに、私は花壇の前に立っていた。
テニスコートに人影は無い。
テニス部もお盆休みなのだろうか?
自然とホースを持つ手も、力の入らないものになる。
昼咲月見草は、今日もキレイに咲いている。
いつものようにホースから溢れる水を花の上から注いでいると、後ろからシャッターを切る音がして、
私は勢い良く振り返った。
「あ、ゴメン・・・・・・邪魔しちゃったかな」
目の前に構えたカメラを少しずらして顔を覗かせたのは、不二くんだった。
いつもみたいにキレイに笑ったその顔が、いつもよりも近い位置から私に向けられるから、私の頭の中は途端に白く染まった。
「少し、撮らせてもらってもいいかな?」
言葉を失ったまま立ち竦んだ私に、不二くんは再び口を開いた。
「・・・・・・う、うん。どうぞ」
そう言って私が花壇の前から退くと、首を傾げた不二くんが私を見つめた。
「・・・・・・撮っていいよ?」
何も言わない不二くんに、今度は私が口を開く。
「あ、うん。ありがとう」
不二くんがそう言った後、しばらくの間シャッター音だけがその場に響いていた。
「ねぇ、よかったら・・・・・・さんも一緒に写らない?」
ひとしきり花にレンズを向けた後、おもむろに振り向いた不二くんが、私に言った。
「え?」
私にレンズを向けて。
「撮らせてくれない、かな?」
揺れる昼咲月見草をバックに、微笑んで。
「む、無理!」
そんな優しそうな顔が見ていられなくて、私は「ゴメン!」と一回謝ると、その場から駆け出した。
*
ホースから流れる水が、コンクリートに水たまりを作る。
思わず逃げ出してしまったあの日から、私は不二くんと顔を合わせることもないまま。
言い訳する機会も、ないまま。
あれから三度目の当番日を向かえた。
写真は少し、苦手なの
ごめんね
驚かせちゃったかな
修学旅行も、結局集合写真以外一度も写らなかったし
クルクルと頭の中でシミュレーションを続ける。
今度、また会えたら。
ちゃんと言おう。
ごめんね、って。
同じクラスになった事も、あまり話した事もないけれど。
おかしな子とは、思われたくないし。
テニスコートからいつものように一際大きく歓声が響いた瞬間、虚ろに霞んでいた視界が一瞬の間にピントを合わせて。
目の前には見慣れた花壇。
向日葵はもうすっかり伸びきって、昼咲月見草は萎れはじめていた。
キレイに咲いた、二ヶ月の間に。
一体何回、お月様と出会えた?
五月の中頃に初めて咲いたその日から、日に日に濃くなっていった桃色は、今はもう力なく首を下げて。
そんなに俯いていたら、お月様は見えないんじゃない?
頑張って。
誰に言ってるのか。
自分でもよくわからなくなるけど、頑張って。
頑張って。
*
「さん」
名前を呼ばれた気がして振り向いた。
だけど、そこには誰も居なくて・・・・・・
「さーん」
振り向いたそこから少し視線を上げると、校舎の二階の窓から身を乗り出す不二くんが居た。
目が合うと手招きされて、私は急いで蛇口を閉めに走ると、ホースを丸めて校内に駆け込んだ。
「ど、どうしたの?」
走ったせいで上がった息を整えながら、私は窓際に佇む不二くんの方へ歩み寄った。
「あ、と・・・あの、部活は?」
不二くんがユニフォームを着ている事に気づいて聞いてみると、
彼は小さく「休憩」と言った後、人差し指を唇に当てて、「ね?」と首を傾げた。
「「この間―――――」」
揃った声に、私は驚いて口をつぐんだ。
「ごめん。先、いいよ」
面白そうに笑った不二くんが私を促して。
「いや、私が後でいいよ。先、どうぞ」
私がそう言うと、また不二くんは面白そうに笑った。
「・・・・・・この間、ごめんね」
口を開いた不二くんが、私が言おうと思っていた言葉を告げた。
「私の方こそ・・・ごめん」
「「写真苦手―――――」」
また揃った声に、私の耳が朱色に染まって。
不二くんは、おかしそうに噴き出した。
「写真、苦手だって知らなかったんだ」
クスクスと笑いながら、不二くんが言葉を続けた。
「そういえば、修学旅行の写真にも写ってなかったよね」
「うん・・・・・・集合写真だけは、写ったけど」
だんだんと小さくなっていく自分の声。
「花壇の、向日葵の隣の花・・・・・月見草?」
「うん・・・昼咲月見草」
途切れ途切れに返す言葉。
「昼咲?」
「昼間から咲いてるから」
どうしよう。
もう、逃げたくて仕方なくなってる。
「あぁ、それで昼咲月見草、か」
納得したように頷く不二くんに、なんて言ってこの場を辞そうかってばかり考えてる私。
「卒業までに、僕だけのアルバムを作りたいんだ」
「そう、なんだ」
へぇー、なんて感心したように頷きながらも。
逃げ出す言い訳ばかり、考えて。
「昼咲月見草は、そろそろ枯れちゃうから・・・もっと撮りたかったら早くした方がいいよ」
三分が限度の、私の心臓。
遠くから見ているだけでいい。
こんなに近くに居たら、私は息もできなくなってしまう。
「じゃ――――――」
手を上げて去りかけた私の後方から、突然声がかかって。
「ー」
「あ・・・」
私はまた、その場に立ち尽くした。
「今日も当番?」
聞かれた言葉に、
「うん」
短く答えて。
「そっか、おつかれー」
部活のユニフォームに身を包んだ友人は、それだけ言うと去って行った。
「、って」
柔らかい声で名前を呼ばれて慌てて振り向くと、不二くんはやっぱり優しい顔で笑ってた。
「可愛い名前だよね」
「そんなことないよっ!」
言われなれない言葉を聞いて、焦った私の声は少し上擦っていた。
「そんなことあるって」
「いや、本当に・・・・・・」
否定の言葉を否定されて、私は思わず俯いた。
「ねぇ、僕も名前で呼んでいい?」
「う、うん」
俯いたままだから不二くんがどんな顔をしているのかはわからないけど、きっと私の顔は赤く染まってる。
制限時間を大幅に過ぎた心臓が、壊れそうに高鳴って。
「じゃあ――――――」
もうどうしようもないから、私は目も合わせないまま教室を飛び出した。
「待って!」
廊下の端で、立ち止まると。
「ゴメン。ちょっとだけ、待ってくれないかな」
不二くんが、私の方へ走ってきた。
「もし・・・・・・もし、さ」
何もかもが口実で、本当はキミの写真が欲しかっただけだって言ったら――――――どうする?
室内よりも音が大きく反響する廊下で、少しだけ潜められた声で。
「ゴメン。こんな聞き方、ずるいよね」
私は、少し笑った不二くんの顔を、ただ見つめて。
目の前の世界についていけてない自分の頭の中を、必死に整理した。
「最初から、撮りたかったのは花じゃなくて、キミだったんだ」
私が飲み込もうとする端から溢れるように、不二くんは言葉を連ねる。
握り込んだ手が、冷たい。
血が少しも流れないくらい、強く握り締めてるせいかもしれない。
「キミの写真が欲しかったんだ・・・・・・キミのことが」
好きだから――――――
*
背筋を伸ばした向日葵は、種をこぼしながら首を傾げている。
桃色に染まった花は、もう枯れて。
夏も、もう終わる。
私の無言の恋は、三年目に入る寸前に、形を変えて。
あんなに焦がれたお月様は、今、私の隣に。
「一枚だけでいいからさ」
強い日差しに光るレンズから、私は自分を隠して。
「ゴメン、無理!」
逃げ惑う足元には、さっきホースで撒いた水が水たまりを作っていた。
『一枚だけ・・・』
『無理!』
何度も繰り返した言葉は、もう条件反射のように。
水たまりを跳ね上げて走り回る私の視界に、花の無い昼咲月見草が見えた。
「本当に、一枚だけだって」
少し離れた位置から、不二くんが声を上げた。
突然返す言葉に戸惑うのは、花も無い昼咲月見草の葉が、
緩く、小さく、揺れるから。
「来年、また・・・・・・この花が咲いたら」
レンズの前でも、キレイに笑うことができるかもしれない。
来年。
また、この花が咲いたら。
お月様の前でも、上手に笑えるかもしれない。
だから。
「・・・・・・また、来年!」
大きく響いた私の言葉に。
不二くんは、やっぱり優しい顔で笑ってた。
END