傍に居れば、心臓が口から飛び出そうなくらい緊張する
固まったまま、気の利いたことの一つも言えなくて
目を見て話すこともままならない
声は震えていないかな?
どうすることもできずにスカートの裾を掴む手は、震えていないかな?
変な人と、思われていないかな?
不安ばかりが押し寄せてくるのに、なぜか口元は緩んでしまう
――――――こんな感情に、どんな名前を付ければいい?
君が好き
6限目が終わりに近づくにつれて、ほとんどのクラスメートの視線が黒板の上に設置された時計に集まった。
それはいつものことだけど、一人一人の目にいつもと違う熱気を感じるのは、今日がバレンタインだから。
私が眠い目を擦りながらその様子を眺めていると、秒針が12を回って授業終了を告げるチャイムが鳴り響いた。
教科書をしまって、ペンケースをしまって――――――――
チョコレートを手に教室から出て行く皆を見送ってから、私はカバンの中に忍ばせていた小さなカードを手に取った。
チョコレートと一緒に渡そうと思っていたそのカードに、どんな言葉を書くか一晩中悩み続けて、
だけど、結局何も書けないまま今を迎えてしまった。
早くしないと渡せないまま今日が終ってしまうかもしれないのに、何を書けばいいかまったくわからない。
想いをそのまま書けばいい。
そんな風に思う自分も居るけれど、この想い自体が不明確で言葉にすることもままならないものだから。
ペンを握り締めた手は止まったまま、動いてくれる気配も無い。
いつの間にか教室には誰も居なくなって、雑音の消えた室内に私のため息が緩く溶けていった。
*
6限が終わって人の居なくなった教室で、俺はなにをするわけでもなく、ただ窓の外を眺めていた。
校門から出て行く人影がまばらになっても、未だ待ち人は来ない。
約束したわけじゃない。
ただ、俺が勝手に待っているだけ。
1週間前。
『鳳くんは、甘いものって好きな方?』
タイミングの良い質問に、俺はすかさず頷いた。
『そっか』
そう言った顔がホッと緩んだように感じたのは、俺がそれを望んでいたからかもしれない。
1年の時は同じクラスで、ずっと隣の席で、意識しなくても傍に居る事ができた。
2年になってクラスが離れて、会えなくなった分だけ想いは募った。
廊下で擦れ違う時、それまではキュッと結ばれていた口元が、俺を見つけて緩むのを見るのが好きだった。
傍に居れば、その細い肩を抱きしめたくてしかたなくなるくせに、想いを伝えるのは容易な事じゃなくて
告げようと思い立っては口を開いて、不安になって口を閉じる。
その繰り返し。
嫌われてるなんて思ってはいないけど、好かれてる自信はあるけど、だけど・・・・・・
彼女が俺に持ってる『好意』の中に、俺の望む感情はあるのかな?
開いたままの教室の扉の向こうに、立ち止まる人の気配がした。
慌てて顔を向けた俺に、その人影が笑った。
「長太郎、お前こんな時間までなにしてんだよ?」
からかうようにそう聞いてくるのは、なにかを察知したからだろう。
「宍戸先輩こそ、どうしたんですか?」
俺がそう聞くと、宍戸先輩は呆れた顔で俺を見た。
「お前、今日誕生日だろ?」
下駄箱で待ってたのに来ねぇから迎えに来てやったんだよ、と言う宍戸先輩の言葉に、
俺は自分の誕生日をすっかり忘れていたことに気付いた。
「飯でもおごってやろうかと思ってたんだけどな・・・・・・」
宍戸先輩は、そう言って意味ありげに笑うとポケットからおもむろに何かを取り出して、俺の方へ投げた。
「バレンタインってのは、別に女が男にチョコを渡す日って決まってるわけじゃないんだぜ?」
放物線を描いて俺の手の中に落ちてきたのは、小さなチョコレートバーだった。
「・・・・・・?」
俺が宍戸先輩の言葉とチョコレートバーの意味を理解できずに首を捻っていると、
それに焦れたらしい宍戸先輩が口を開いた。
「男から渡したって、別におかしい話じゃねぇって言ってんだよ」
「え?あ、あの・・・」
「とかっていう女からチョコレートもらえなくて落ち込んでたんだろ?」
宍戸先輩の口から出たその名前に、俺は急激に顔が赤くなるのを感じた。
「な、なんで・・・・・・」
知ってるんですか?と言おうとして、俺はハッと口をつぐんだ。
それを言ったら、チョコレートをもらえなくて落ち込んでたんです、と肯定しているようなものだから。
「お、俺は別に・・・・・・」
「今日はがどうしたこうした、って毎日聞いてりゃ嫌でも気付くんだよ。馬鹿か、お前」
今更ごまかしてんじゃねぇよ、と言った宍戸先輩は、俺の手を勢いよく引っ張ると俺を立ち上がらせた。
「さっさと行ってこいよ」
宍戸先輩は、そう言って俺の背中を強く叩いた。
あまりにも強く叩かれたせいでジンジンと痛む背中に、俺は思わず笑ってしまった。
「先輩」
「なんだよ?」
「・・・・・・ありがとうございます」
俺の言葉に宍戸先輩が笑った。
そして、さっさと行けと言うかのように手をひらひらと振った。
だから、俺はチョコレートバーを握り締めて―――――――――
*
窓から覗いた朱色の空が、私の手元を朱く染めた。
机の上に乗ったカードには、小さな文字で一行だけ。
やっと記せた自分の想い。
ただ、『君が、好き』。
短かくて柔らかそうな髪が好き。
お陽さまみたいに笑う顔が好き。
大きな手も足も、広い背中も、みんな好き。
考え始めれば際限なく出てくる、ありふれた言葉。
だけど、ちょっと違う。
私が伝えたいものとは、ちょっと違う。
だから、ただ、『君が、好き』。
*
閉じられた教室の扉の、その向こうに絶対彼女が居る気がして。
扉にかけた手が震えた。
深呼吸を繰り返して、チョコレートバーをそっと握り締めると、俺はゆっくりとその扉を開いた。
チョコレートの箱にカードを添えて、私は帰り支度を済ませると立ち上がった。
開いた扉の向こうにを見つけて、俺は口を開いた。
扉の開く音に、振り返るとそこには鳳くんが居た。
「」
声が震えて、次に続ける言葉が見つからなくて。
俺はただ、赤い陽が朱色に染めたの顔を見つめていた。
チョコレートの箱を握り締めて、鳳くんの口元が動くのを見ていた。
心の中で何度も繰り返した言葉を、伝えてしまわないと――――――
焦る気持ちに、私は今にもその箱を鳳くんに投げつけてここから逃げ出してしまいそうだった。
「、俺・・・・・・」
『やっぱり、なんでもない』
そう言って逃げ出してしまいそうになる足を必死に踏み留めて、俺はチョコレートバーを差し出した。
差し出された鳳くんの手の中にチョコレートバーを見つけて、私は思い切って口を開いた。
「好きだ」
「好き」
重なった言葉に、室内には二人分の笑い声が響いた。
私の傍まで歩いてきた鳳くんが、チョコレートバーを改めて差し出したから、
私も握り締めていた箱を、鳳くんの前に差し出した。
受け取った箱の上にのったカードを開くと、そこには俺がチョコレートバーに込めた想いと同じ言葉が在った。
カードを見ていた顔が私の方を向いて、照れたように緩んだ。
だから私は、鳳くんのせいで緩んでしまう口でもう一度。
君が、好き
この感情に、名前なんかいらない
ただ、ただ
君が、好き
END