放課後の部活も終わって、ワラワラと帰途につく部員達を見送りながら部室のドアを開くと、
大きなテーブルの上に少しくたびれたノートを広げて、その上に突っ伏すように居眠りをしている乾くんが居た。
トレードマークになってる眼鏡は少しずれて、その隙間から今は閉じられた瞳が覗いていた。
他に誰も居ない室内で、私は誘われるように近づくとその短い髪を指でつまんだ。
ツンツン、と引っ張っても起きる様子のない乾くんに私はそっと顔を寄せて、その短い髪に口付けた。
テーブルの上に部室の鍵を静かに置くと、チャリ、という音が小さく鳴る。
それでも身じろぎもしない寝顔をまた見つめて、もう一度。
その短い髪を指で緩く梳いて、またもう一度。
苦しいのは、触れた分だけ吐き出すことの出来ない想いが胸の奥で膨らむから。
叶うなら、君のポケットに入れる小さな体が欲しい。
いつも、本当に大事な物しか入っていない君のポケットに、入れてもらえるような人間になりたい。
いつも。
そばに居たい。
いつも。
触れていたい。
君のポケットに、入りたい。










君 の ポ ケ ッ ト










全然目を覚ます気配のない乾くんに、私は少し笑うとその隣の椅子に座って乾くんと同じようにテーブルに突っ伏した。
いつもは私よりずっと上にある乾くんの顔が目の前に見えて、私の心臓が少ずつスピードを早めていく。
今目が覚めたら、乾くんはどんな反応をするだろう?
目の前に、突然私の顔が見えたら、どんな反応をするんだろう?
目覚めて欲しくて、欲しくなくて。
いつまでも、その寝顔を見て居たいから。
気付いて欲しくて、欲しくない。
この想いに。
バレンタインだというのに、私が乾くんに用意したのは、他の部員達に配った物と同じ、ただの義理チョコ。
ずっと探し続けてるのに、まだ見つからない。
この想いを伝える勇気だけが。
?」
突然後ろから聞こえた声に、私は驚いて飛び起きた。
「・・・・・・ふ、不二くん?」
気配もさせずに突然室内に現れた不二くんに、私は驚きすぎて心臓が壊れそうになった。
「・・・・・・あれ?乾、寝ちゃってるの?」
私の横に乾くんを発見した不二くんが、私にそう問いかけた。
「う、うん」
私はそう答えながらも、私が乾くんの寝顔を盗み見てたことに気付かれたんじゃないか、と気が気じゃなかった。
「で、は乾の寝顔でも見てたのかな?」
「え!?」
私が椅子を蹴倒すほどの勢いで立ち上がると、不二くんが思い切り笑い始めた。
・・・顔真っ赤になってるよ?」
上手く誤魔化すこともできずに立ち尽くす私を見て更に笑う不二くんに、私の顔はどんどん熱を増していった。
ってわかりやすいよね――――――――乾が傍に居ると途端に口数が減るし・・・・・・俯いたまま、顔上げないし」
これだけ笑い続けても、まだまだ込み上げてくるらしい笑いを堪えながら不二くんが言った。
「・・・・・・馬鹿だって言いたいんでしょ?」
嫌われたくないのに、好かれたいのに、なぜかそんな態度しか取れない私は、傍目から見ればきっとただの馬鹿だ。
「『可愛い』って意味で言ってるんだけど?」
王子様然とした顔でサラッと告げられたその言葉に、含みを感じるのは私が捻くれ者だからだろうか。
「胡散臭い、って顔してるね」
何が面白いのかわからないが、不二くんはまだ笑い続けている。
「で、『可愛い』からの義理チョコ、僕はまだもらってないんだけどな」
催促するように手を出した不二くんに、私はポケットの中からキューブチョコの詰まった小さな箱(1箱500円也)を取り出して手渡した。
「ありがとう・・・・・・ちなみに、隠してるつもりかもしれないけど、の気持ちに気付いてないのは、テニス部内では乾だけだから」
あ、乾だけだったから・・・・・、かな?と言う不二くんの言葉に、え?、と問い返す暇もなく、
不二くんはドアの外へと消えて行った。




ガタッ、という何かの倒れる音に目を覚ますと、目の前に誰かの後ろ姿が見えた。
・・・顔真っ赤になってるよ?」

目の前に見える後姿は、どうやらのものらしい。
そして、笑い声とともに聞こえたその声は、不二のものだろう。
ってわかりやすいよね――――――――乾が傍に居ると途端に口数が減るし・・・・・・俯いたまま、顔上げないし」
起き上がろうとした俺は、その言葉の中に自分の名前が入っている事に気付き固まった。
「・・・・・・馬鹿だって言いたいんでしょ?」
どこか思いつめた様子のの声に、その言葉の意味を推測してみる。
だけど出てくる答えは、なぜか自分に都合のいいものばかりだ。
「『可愛い』って意味で言ってるんだけど?」
不二のその言葉に、俺は思わず顔を上げた。
突然顔を上げた俺に、不二は少しも驚いた様子を見せず、また笑い始めた。
「胡散臭い、って顔してるね」
不二は俺を無視して言葉を続けた。
は、どうやらまだ俺が目を覚ましている事に気付いていないらしい。
「で、『可愛い』からの義理チョコ、僕はまだもらってないんだけどな」
催促するように手を出す不二に、はポケットの中から取り出した小さな箱を手渡した。
「ありがとう・・・・・・ちなみに、隠してるつもりかもしれないけど、の気持ちに気付いてないのは、テニス部内では乾だけだから」
渡された箱を手に満足げに微笑んだ不二は、呆然とする俺の顔を見ながら「あ、乾だけだったから・・・・・、かな?」と
意味深に付け足して、ドアの向こうへ消えて行った。




身じろぐ気配を感じて振り返ると、いつの間にか目を覚ましていたらしい乾くんと目が合った。
「あ・・・・・・」
いつから起きてたの?
どこらへんから聞いてた?
聞きたいのに、聞けないまま、私は口をつぐんだ。
窓の外から顔を覗かせた月だけが、沈黙に包まれた室内を照らす。
『乾だけだったから・・・・・、かな?』
その言葉から察するに、乾くんはもうずっと前から起きていて、不二くんはそれに気付いていた、ということだろう。
今すぐここから逃げ出してしまいたい。
だけど、私の両足はちっとも動いてくれなくて。
どうすることもできずに、握りしめた手は汗をかいていた。
「・・・・・・悪かったな」
いきなり謝られて、私は驚き顔を上げた。
「え?」
「俺が居眠りをしていたせいで、鍵を閉められなかったんじゃないか?」
その言葉に、寝顔をコソコソ盗み見ていた事はバレていなかったのだと気付き、私はホッと息を吐いた。
「別に、大丈夫・・・・・・」
そう答えてから、それが全然答えになっていないことに気付き、私は自分の言語能力の無さに落ち込んだ。
「そうか・・・・・・じゃあ、そろそろ帰るか」
そう言って立ち上がった乾くんに私は頷いて、部室の隅に置いておいたカバンを手に取った。
学校を出て真っ直ぐ歩いていると、さっきまで淡く光っていた月がいつの間にか灰色の雲の向こうに隠れていた事に気付いた。
黙ったまま、2人で並んで歩く。
乾くんと一緒に居る時は、いつもそんな感じだ。
斜め上にある乾くんの顔から視線を外すために、俯くか、空を見上げるか。
一度目に入ってしまえば、視線を外すことができなくなってしまうから。
だから、黙ったまま―――――――――今日は、空を見上げた。




斜め下に視線を落とすと、空を見上げるの顔が目に入った。
黙ったまま歩き続けるのは、何を話し掛けたらいいかわからないからだ。
言いたい事は―――――――――聞きたい事はたくさんある。
俺だけが知らなかったというの気持ち、それは俺がさっき推測したもので合っているのだろうか。
と居て困る事。
それは、俺が一番得意とする計算でさえ、きかなくなる事だ。
99.9%合っているはずの答えも、容易には信じられない。
正しい答えを導き出すには計算対象を客観的に見なければならないのに、
に関する答えを弾き出す時だけ、俺は心の中にある私的感情を捨てきれない。
だから、今何をするべきなのかわからない。
ただ、離れがたくて。
「あれ?乾くんの家、こっちだっけ?」
「送っていくよ。俺が寝ていたせいで、暗くなるまで待たせてしまったからな」
即座に「いいよ、大丈夫だから」という答えが返ってくるが、
「いや、送っていく」
悪いな。
まだ・・・・・・傍に居たいんだ。




自宅に辿り着いて、玄関の門の前でやっと乾くんの顔を真っ直ぐ見ることが出来た。
ポケットの中には、タイミングを逃したまま今まで渡す事のできなかったチョコレートの箱が入っている。
「あの、ありがとう。送ってもらっちゃって・・・・・・」
「いや、元々俺のせいで遅くなったんだ。気にするな」
今は薄く笑う口元が次の瞬間どんな形に動くのか、到底予測はつかないから私はずっと肩に入った力を抜く事が出来ずにいる。
乾くんが不二くんの言うとおり、私の気持ちに気付いたなら、それでも何も言わないのは――――――――
「・・・・・・迷惑だったから?」
切り出すのが怖くて、だけど切り出されるのも怖くて、気付けば声に出していた。
「何も、言ってくれないのは・・・・・・め、迷惑だったからだよね」
自分で言っておきながら泣き出しそうになるのは、声にした分だけ心の深い所で実感してしまったから。
「迷惑なんかじゃない・・・・・・ただ、」
迷惑じゃない?
本当に?
だけど・・・・・・その先に続く言葉を聞くのはまだ怖いから。
「ごめんね。余計に気を使わせちゃって・・・・・・」
「気を使ってるわけじゃない。聞いてくれ・・・・・・本当に、迷惑なんかじゃないんだ」
ただ信じられなかっただけだ、と言った乾くんが、私の手を強く掴んだ。




「都合のいい夢を見てるのかと、思ったんだ」
掴んだ手を離したら今にもが逃げ出してしまいそうな気がして、俺はその手を強く握り締めた。
すぐ黙り込むのも、俯くのも、避けられてるとしか思えなくて。
だけど、決して俺の方を向かないその横顔に、いつだって見惚れていた。
だから、さっき部室で不二の言葉を聞いた時は、都合のいい夢を見てるのだと思った。
のことが、好きだから」
真っ直ぐに俺を見つめるその瞳が潤みだして、俺は堪えきれずにその小さな体を抱きしめた。




長い腕に抱きしめられて、私は思わずその胸に抱きついた。
「信じられない・・・・・・」
口をついて出た私のその言葉に、乾くんは小さく笑った。
「離れがたくて家の前まで付いてきた上に、今こうして足止めまでしてる俺が、」
まだ信じられないのか?と笑いながら、乾くんは私を抱きしめる腕にギュッと力を入れた。
「それより・・・・・・俺は、のその膨らんだポケットの中身が、さっきからずっと気になっていたんだけどな」
ポケット、と言われて私はようやく、まだ乾くんにチョコレートを渡していなかった事に気付いた。
「あ、ごめん。その・・・・・・」
抱きしめる腕を少し緩めてくれた乾くんの胸元から抜け出して、私はポケットの中の箱を取り出した。
「チョコレート・・・・・・です」
箱を手渡す時に少しだけ掠った指先が、なんだかやけに恥ずかしかった。
乾くんの顔を見ることも出来ずに俯いていると、そんな私の首元を、乾くんの手が撫でるように引き寄せた。
「好きだ」
一瞬だけ重なった唇が離れていく気配に私が目を開けると、いつの間にか眼鏡を外していた乾くんと目が合った。
は?」
促すように囁かれた低い声に、私は、
「乾くん・・・・・・今日はポケットの中に何を入れてる?」
やっと、この想いを伝える勇気を見つけた。
「・・・・・・家の鍵と、財布・・・だけだったかな」
やっぱりいつも通り、本当に必要な物しか入ってないそのポケットに――――――
「そのポケットの中に、ずっと入りたいって思ってたの」
不思議そうな顔で私を見る乾くんに、私は思わず笑ってしまった。
「それは・・・・・・いつも傍に居たい、という意味だと受け取って、いいのか?」
眉をしかめて不安そうに聞いてくる乾くんに、私は大きく頷くと、その首元をギュッと引っ張って
グンと近くなった唇に、思い切ってキスをした。










END