同じ場所から、同じものが見たくて


その背中に、飛びついた




君が感じるすべてを、同じように感じられる、自分になりたくて


『なんで?』『どうして、そう思うの?』


そう尋ねると、いつも君は少し困ったような顔で笑った










眼 鏡 越 し の










ノートを片手に黒板に向かって立つその背中を、いつものようにじっと見つめた。
半袖のシャツから伸びた長い腕には、さっき私が貼ったばんそーこー。
長い指はチョークを掴んで、淀むことなく動き続けている。
それが、少し誇らしくて、うれしくて――――――


教科書に並んだ数式は難解で、ちっとも頭に入ってこないくせに。
数学が苦手な私のために、貞治が書き込んでくれたポイントだけは、何ページ目のどこに何て書いてあるかまで覚えてる。
今開かれているページの上にも、もちろん――――――
ラインを引いたその横に付け足された、『ここは確実に出るよ』。
少し神経質そうなその字を指でなぞると、緩んだ頬がまた少し熱を増した。


・・・・・・・・・・・・・・・聞いてる?」
顔を上げると、いつの間にか板書を終えてこちらを向いていた貞治と目が合った。
「聞いてるよ」
試験最終日の今日。
放課後ともなれば、もう校内に人影はない。
しかし、初日の数学でいち早く追試を言い渡された私は、こうして補習を受けている。
貞治は試験の採点で忙しい先生の代わりに、私の勉強を見るハメに――――――


「どこかわからない所ある?」
貞治は、そう聞くけど、
「わからない所が、わからない」
私には、こう答えることしかできない。


貞治が声にする言葉だけでも、すべて理解できる自分で居たいのに。
いつも一歩目で、まずつまずく。
貞治が考えてることは、何でもわかる自分で居たい。
どんな時も、リンクして居たい。
ピンチの時は、すぐに飛んで行けるように。




『ピンチの時は、飛んで行くよ。』




大好きな幼馴染みが、いつまでも私と居てくれるように。
貞治のためなら何でもするよ?って。
そういう意味で、告げた言葉。
だから、同じ言葉が返って来た時は、すごくうれしかった。




でも、そんな約束を覚えてるのは、もう・・・・・・私だけかもしれない。








   *








放課後。


私は教室の扉の影に隠れて、探るように廊下を見回していた。
(・・・・・・・・・来た!)
視線を止めた先には貞治。
しかし、すぐに飛び出しては行かない。
目的は貞治の尾行だったからだ。
ここの所、放課後になると貞治はどこかへ姿を消す。
部活の無い日は一緒に帰るって・・・・・・・約束してたわけじゃないけど。
せっかく一緒に帰れると思ってたのに。
しかも、今日は土曜日なのに。
一緒に帰って、一緒にご飯食べて。
やっぱり、約束なんかしてたわけじゃないけど。
ずっと、そうだったから。
これからも、そうなんだと思ってた。
なのに――――――――
そこまで考えてハッと我に返った私は、急いで扉の影から出していた顔をその裏にしまった。
そして、目の前を通り過ぎて行く貞治から目を離さないように気をつけながら、その場にしゃがみこんだ。




今日こそは、突き止める。
貞治がどこへ消えているのか。
幼馴染みの私よりも大事な用がなんなのか、を。








   *








六月。



閉められた窓から差し込む陽射しのせいで、ただ廊下を歩いているだけなのにやけに左肩が暑い。
梅雨入り前のつかの間の快晴。
初夏というのはやけに畳が恋しくなる季節だ、と俺は思う。
強い日差しを遮る縁側で風鈴が鳴り始めるのもこの季節だ。
匂い立つ畳の上で、その音色に耳を傾けながら――――――
・・・俺の思考の大半を懐かしい景色が占め始めるのもこの季節だ。
そうして歩いているうちに、視界の端に目的の人物を見つけ、俺は立ち止まった。
「新川!」
「あ、乾君・・・・・・はい、コレ!」
その言葉とともに渡されたのは、茶道部の部室の鍵だ。
「じゃあ、いつもの所に―――――」
「わかってる。ちゃんと戻しておくよ」
俺の言葉に笑顔を浮かべた茶道部・部長の新川は、手を振りながら踵を返した。
「じゃあね、乾君。また来週!」
「ああ、気をつけて帰れよ」
そうして手にした鍵をポケットに入れて茶道部の部室に向かうのは、ここ最近の日課となっている。
校内唯一の和室で畳の上に座り、何をするわけでもなく数十分を過ごす。
そこには風鈴の音も、いつも気付けば隣に居る存在も、懐かしい景色と重なるものは匂い立つ畳以外には何もないけれど。
やけに落ち着くのは、窓から見える青空が懐かしい景色と繋がっているような気がするからだろう。








   *








目の前で、手から手へと渡された鍵。
なんの鍵?
聞きたいけど、聞けない。
だって、今私は尾行中なのだから。
なので、今見える範囲から推理してみる事にした。
そこに居るのは、貞治と、茶道部の部長をしている新川さん。
新川さんとは一度も同じクラスになったことはないけど、その名前は有名だった。
黒くて長い髪と、柔和な笑顔。
目鼻立ちはしっかりとしているのに、なぜか派手に見えない、和風美人。
彼女の横を通ると、いつもお香の良い匂いがする。
そんな新川さんの手から、貞治へ渡された鍵。
なんの鍵?
わからない。
だけど、窓から差し込む強い陽射しに白く光る、そんな二人がとってもお似合いだってことだけはわかった。








   *








尾行開始から十数分後。
私は茶道部の部室の前に立っていた。
目下の悩みは横開きのそのドアを開けるか、どうするか、だ。
悩みながらも、少し開いて中を覗いた。
だけど、見えるのは閉められた障子戸だけ。
障子の向こうで動く人影が見えるけど、それはもちろん貞治だ。
他に動く人影は見えない。
話し声も聞こえない。
誰かと待ち合わせをしているのかもしれない。
そう思った私は静かに扉を閉めて、扉が目に入る階段の影に隠れて、その誰かが現れるのを待つことにした。








腕時計に目をやって三十分が経過したことを確認した私は、また扉の前に移動した。
誰も来ない。
どうして?
うーん・・・・・・と、唸りながら私は扉に手をかけた。








恐る恐る障子戸を少し開いて中を覗くと、畳の上で横になっている貞治が目に入った。
障子戸の隙間から物音を立てないように室内に入り近づいてみると、貞治は窓から差し込む日差しを遮るように顔に腕を乗せて寝入っていた。
その横には制服の上着と眼鏡が、無造作に放ってある。
昼寝・・・・・・?
私より大事な用って・・・・・・昼寝?
安堵からか何からかわからないけど、私は思いっきり脱力してしまった。








父親が日本マニアなせいで、私の家は全室畳張りだった。
貞治はそんなうちの居間が何よりお気に入りだったらしく、小さい頃は毎日のようにそこで遊んでた。
夏が近くなると母が縁側に飾る風鈴の音が室内外に響き始める。
その音色がやけに心地良くて、二人揃って寝入ってしまうこともしばしばあった。
小学校に入学してからも、貞治がテニスクラブに通い始めてからも、どんなに忙しくなっても休みの日には二人で遊んだ。
それが、ぱったりと無くなったのはいつからだっただろう。
最近貞治君来ないわね、って母が言って。
忙しいのかな?って答えた。
あの日は、いつだっただろう。
中学に入学してからは、部活の関係で登下校の時間も重ならなくなって。
時々思い出したかのように現れる貞治を家で待ち続けてた。
だけど、そんな毎日に。
淋しくないもん、て思うこともできなくて。
確実に顔を合わせる学校では、ずっと貞治の後を追いかけていた。
ずっと一緒に居たいけど、そんなの無理だって、気付いたのも中学に入ってから。
重なるものがあれば、一緒に居られるかもしれない。
同じ景色が見えてれば、一緒に居られなくても淋しくないかもしれない。
だけど、重なるものなんか無くって。
同じ景色だって、私には見えない。








   *








重い瞼を開けると、もう大分陽が傾いていた。
時計を見ると三時を回っている。
慌てて起き上がった俺の腕に、その瞬間何かがぶつかる。
驚いて横を向くと、視線の先でが気持ちよさそうに寝息をたてていた。
セーラー服の裾は思い切りめくれて、腹が見えている。
俺はため息を吐くと、眼鏡とともに掴んだ制服の上着をの身体にかけてやった。
伸ばした手でその額にかかる髪を少し持ち上げると、閉じられた目元があらわになる。
額に口付けて・・・・・・それでも開かないその瞳に、衝動は堪えきれるはずもなく。
俺は緩く開く口元に、小さく口付けた。
去年は何度も通ったの家も、今年に入ってからは一度も行っていない。
その理由が、コレだ。
俺の後を追いかけてくるの姿は、犬か、良く言えば仲の良い兄弟のようで。
あまりにも無防備なに、もっと自覚してくれと思う反面、このままで居て欲しいと願う自分が居る。
目を覚まさないに戯れのように何度も繰り返す。
小さな口付け。
何をされてるかわかってるのか?と、問いただしたいくらい無防備な寝顔。
盲目的に自分を信頼しているが、いつこの事に気付くのか。
俺の言うこと一つ一つに、『なんで?』『どうして?』と繰り返す
答えに窮するのは、に今のままで居て欲しいから。
変わって欲しくない、なんて。
俺のエゴだとわかっていても、願わずにいられない。
同じものを見て、俺とはまったく違う答えを弾き出すが、いつだって救いだったから。
俺の思いもよらない方法で、俺の心を軽くする。
その笑顔に、いつまでもそのままで居て欲しいから。
がこの想いに気付いた時、きっとこのままの二人ではいられない。
避けられない道かもしれない。
だけど願わくば、それができるだけ遠い未来であるように――――――








   *








目を開けた瞬間、貞治の柔らかく笑う顔が視界に飛び込んできた。
「おはよう、良く寝ていたな」
寝惚けた目を擦りながら起き上がると、やっと記憶が蘇った。
「あ゛ーーー・・・・・・・・・」
尾行していたはずなのに、あまりにも陽射しが心地良くて寝入ってしまったらしいことを思い出した私は、その場に突っ伏した。
しかし、気をとりなおして直接尋問してみる事にした。
「貞治は・・・・・・いつもここに来てたの?」
「あぁ」
頷く貞治は、もうすでに私がなぜここに居るのか理解してしまったような顔だ。
取り繕っても仕方がないので、私は素直に聞きたかったことを尋ねてみることにした。
「なんで?」
「畳があるから、だな」
即座に返って来た返事は、納得できる代物ではなかった。
だから、言った。
「うちに来ればいいのに」
「・・・・・・そうだな」
だけど、そう言いながらもきっとそう思ってないってわかる貞治の言葉に、自然と肩が落ちる。
貞治は、秘密が多くて。
だけど、私の考えてることなんかは一方的にお見通しで。
「私たち、幼馴染みだよね?」
「あぁ」
何言ってるんだお前、って言わんばかりの貞治の声。
だけど、私の言ってる『幼馴染み』の距離と、貞治が思う『幼馴染み』の距離はずっと遠くて。
「眼鏡、貸して」
そう言うと、次の瞬間には差し出した手の平に眼鏡が乗っかってる。
だけど、本当に聞きたいことははぐらかされて。


わけがわからない。


何の用もないのに手の平に乗っかったままの眼鏡。
どうしたらいいのかもわからずに、とりあえず掛けて。
見えた空は、薄くぼやけていた。
ただ青いことだけはわかる、眼鏡越しの空。
雲の一つも浮かばない青い空は、見えているようで、見えていないようで。
貞治にそっくりだ、そう思った。
『ピンチの時は飛んで行くよ』
あの日の空も、こんな色だった。
だから。
貞治が覚えてないなら、また上書いてみればいい。
「ねえ、貞治」
眼鏡の無い素顔が、私の方を向く。
「ピンチの時は、飛んで行くよ?」
怪訝そうにしかめられた眉に、思わず伸ばしたくなった手をギュッと握り締めて。
「だから、絶対呼んでね?」
私を――――――
一緒に居たいって、貞治が思っててくれる限り、私はここに居るよ。
その隣に誰が居ても。
ずっと、居るよ。
離れていくことを怖がるのはやめにしよう。
淋しくないよ。
だから、困ったときは呼んでね――――――?






眼鏡を外して。
だけど、まだぼやける空が不思議だった。
ポタ、ポタ、って、スカートに雨粒の跡のような染みが広がる。
隣から伸びてきた手が、私の目元を一度拭って離れて行った。
「・・・・・・・・・泣くな」
呟くようにかけられた言葉が優しいから。
今なら何でも許してもらえるような気になって。
眼鏡を差し出して。
受け取るために伸ばされた手を、掴んで思い切り引っ張る。
バランスを崩してすぐそばまで近づいてきた唇に唇を重ねて。
『ずっと一緒に居たい』
そう言おうとするのに、喉が震えて声にならなかった。
声に出来ない分だけ、流れ続ける涙を止めることもできないでいると。




「・・・・・・わかった」
近いようで遠かったその胸がすぐ傍まで来て―――――――
私を抱き留めてくれた。
見えるようで見えなかった空。
わかるようでわからなかった貞治。
そのすべてが、今傍にあるような気がした。
まだ視界は、ぼやけたままだけれど―――――――










END