飛べるかもね。
「ねぇ、貞治」
晩飯を口にしていると、が思い出したかのように目を輝かせて口を開いた。
「赤ちゃん、羽生えてるかな?」
疲れてる。
そうだ、俺は疲れてるんだ。
確実に、聞き間違いだ。
聞き間違い以外の何かである確率は0%、だ。
「赤ん坊が・・・・・・どうした、?」
食事の手を止めて聞き返すと、も同じく茶碗をテーブルの上に置き、再び口を開いた。
「羽、生えてるかなぁ?」
先程より滑舌よく、幾分大きめの声で返された言葉に対する返事は、考える必要もない。
「ない」
省略せずに言うと『生えているわけがない』。
「え?だってさ、人って猿から進化してきたんだよ?次は絶対羽生えるよ!」
なんでそう言い切れるのか、俺にはお前がわからない。
だけど、必死に言い募るお前がまた泣きそうになってるから俺は――――
「端折らずに、きちんと説明してみてくれ・・・・・・」
そう、言ってしまった。
「だからね、人間って出来たら便利だなー、って思う方向に進化してきたじゃない?
私、飛べたら便利だと思うんだよね」
瞳を潤ませた悲しげな表情から一転、は目を大きく見開き力説した。
しかし、その説は曲解が過ぎるのではないだろうか。
「まずさ、海の中だけじゃ退屈だから陸に上がったじゃない?」
そう言われても―――――――
すまない、・・・・・・・・・俺には、頷けない。
「―――――で、猿になって、二足歩行出来た方が便利だからできるようになって、
道具とか武器とか、使えた方が便利だから手が発達して、どんどん便利になっていったんだよ、スゴイよねー!
だから、次は飛ぶって、絶対」
俺は、そう言いきれるお前が凄いと思うぞ。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・わかった」
理解は、できたような気がする。
あくまでも、『気がする』、だけだが。
「あ、おかず少ない?ししゃもならすぐ焼けるよ?」
すっかりと空になった皿を前にして、がそう言った。
「そうだな―――――」
俺の言葉を最後まで聞かず、席を立ったに。
「いや、俺がやるからお前は座ってろ」
そう言って俺も立ち上がった。
しかし、すでに冷蔵庫の扉に手をかけていたは。
「大丈夫だって、私が―――――――」
ガツッ
鈍い、音が響いた
「大丈夫か、!?」
平衡感覚が鈍っているせいか、開いた扉に思い切り打ち付けたらしいその顔を振り向かせると、
は鼻を押さえながら涙を堪えていた。
「・・・・・・・・・・らいじょーぶ・・・・これは――――――――――――心の汗だから」
心の汗というのは一般的に涙を指す言葉であり、今お前が鼻から垂れ流しているモノの事ではない。
と、思う。
しかし、今はそんな事を言っている場合でもない。
「・・・・・・・・・・これで押さえてろ、すぐ止まるから」
俺はそう言いながら、タオルを手渡した。
そして、その肩を誘導して椅子に座らせると、一つの決心をした。
ピーンポーン
慌ただしい平日の朝。
鳴り響いたチャイムに、俺はホッと息を吐いた。
「はーい」
言いながら扉を開いたが。
「え!?どうしたの、お母さん」
扉の外に母親の姿を認め、声を上げた。
「俺が、来てもらったんだ」
そう言って、義母に大きなカバンを一つ渡すと。
「すいません、お願いします」
俺は、の肩を押した。
「ど、どういうこと?」
俺と義母を交互に見ながらも、まったく状況を理解できていないの言葉を聞き。
「貞治くんだって、四六時中あんたの事見てるわけにいかないの!
ホラ、さっさと靴履いて!」
義母が声を上げる。
これまでも、が何かしでかすたびに実家へ帰らせるかどうか迷っていた俺だったが、
そんな俺にとって昨日の一件は決定打となった。
「毎日、電話するから―――――――」
靴を履こうとしないの肩を抱き寄せて、額に口付けると。
「貞治・・・・・・」
「だから、大人しくしてるんだぞ?」
悲しげに瞳を曇らせたまま小さく頷いたが、ハッと顔を上げた。
「浮気!?」
だから、どうして今そんな言葉が飛び出すのか。
「浮気、って・・・・・・どうした、?」
「浮気するつもりでしょ!?」
妻が実家に帰っている間に浮気、ってよく聞くもん!と声を上げたに、俺はため息が堪え切れなかった。
「しない」
かろうじてそれだけ答えると、それでもまだは心配そうに俺を見つめていた。
「浮気、しない・・・・・・?」
小さく呟かれた声に、「あぁ」と答えると。
「浮気なんかしたら・・・・・・・・・えーっと・・・・・・・・・・・・」
言いながら、は考え込むようにこぶしを口元に当て視線を落とした。
おそらく、『○○してやる』と言いたいのに、その○○が思いつかないのだろう。
そしてやっと出てきた一言は。
「お前を殺して俺も死ぬっ!」
―――――――自分を『俺』と言っている所から、何かからの引用であることは推測できるが、その内容は非常にいただけない。
「何を馬鹿なコト言ってるの!もう、行くわよ!」
そう言っての頭を一発はたいた義母により、はそのまま実家へ強制送還された。
*
が実家へ送られてから2ヶ月が経ち――――――
俺は義母からの連絡を受けて、病院に来ていた。
立会いの申し込みはしていなかったので、部屋の外で待ち続けること12時間。
一度会社に顔を出しておかなければ、と思っていた矢先にその泣き声は聴こえた。
「生まれたわよ、貞治くん!」
待合室のソファーから義母が立ち上がると、中からすぐ看護士が出てきて言った。
「女の子ですよ」
病室のベッドへと戻ったは、眠たそうに瞬きを繰り返しながらも、幸せそうな笑顔を浮かべていた。
「お疲れ」
その額に張り付いた前髪をかきあげながら言うと、なにか言おうとして口を開いたが小さく咳き込んだ。
「大丈夫か?」
聞いた言葉に、は小さく頷いた。
「名前、決めてなかったね」
さっき気付いた、と言うに。
「あぁ、俺もだ」
うっかりしてたな、と言葉を返すと、が吹き出した。
「貞治が、『うっかり』?」
「俺だって、うっかりすることくらいある」
明日、ろくに見もしないまま本棚に並べてある名づけ辞典を持ってこよう、と俺が考えていると。
「私、今なら飛べるかも」
溶けてしまいそうな笑顔で、がそう言った。
「そうだな」
こんなに幸せな、今この瞬間なら。
飛べるかもしれない――――――俺も、そう思った。
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