7月7日の、小さな願い










安定期に入り、情緒不安定だったもようやく落ち着きを取り戻してきた。
妊娠した当初は「出てこない」「出てくるから大丈夫だ」と言い争いの絶えない状態だったが――――――


「貞治、今日ベビーベッドが届いたのー」
俺の帰宅を心待ちにしていた事が伺えるの様子に、
「あぁ、じゃあ早速組み立てるか」
俺がスーツのジャケットを脱ぎながらそう言うと、
「まだ早いよー」
の顔は、そう言いながらも嬉しそうに緩んでいた。




翌日、結局前日の内に組み立ててしまったベビーベッドの上を飾ろうと、衝動買いしてしまったキリンの抱き枕を脇に抱え玄関をくぐると、聞き覚えがある、というよりも反射的に体が動いてしまうほど馴染みのあるメロディーが室内から聴こえた。


♪息を吸ってー、ハイッ、イチッ、ニッ、サンッ、シッ、


記憶よりも少し・・・・・・いや、かなりアップテンポな調子で流れる声に重なるように、の声も聴こえる。
「ニィッ、ニッ、サンッ、シッ!!」
玄関を上がって、その先に続く扉の影に隠れて室内の様子を窺ってみると、が大変勢いよく屈伸している最中だった。
お前は――――――『安静』や『産休』の意味を、正しく理解してくれているのだろうか。
「あたーらしーいー、あーさがっ、きったー!!」
俺が呆然としている間に、ラジオ体操第一(現行)であった曲が、ラジオ体操第一(二代目)に移ったようだった。
は―――――今日も、元気だな。
の声で、曲が掻き消えている。
相変わらず声がでかいな。
お前のそんなところが好きだぞ、――――――
しかしながら、身重でラジオ体操は・・・・・・いや、その激しい運動はやめておいた方がいいだろう。
、ただいま」
俺が屈めていた背を伸ばして扉をくぐると、が勢いよく振り向いた。
なんだか最近、一つ一つの動作がひどく激しくなっているような気がするのだが、気のせいだろうか。
「おかえりー」
ごはんにする?お風呂にする?それとも、ア・タ・シ?と言いながら笑顔で首を傾げるに、
今すぐその肩を抱き締めたくて仕方がなくなったが、今日はそんな事よりももっと先にしなくてはいけないことがある。
、ちょっとそこに座ってくれ」
そこ、と俺が指差した先には小走りで駆け寄ると、座り込んだ。
「ラジオ体操は――――――」
言いかけた俺の言葉の先を読んで―――――いや、読んだつもりで、が言葉を繋げた。
「癒されるよねー!」
人の話はちゃんと聞け。
「特に、最後深呼吸できるところが良いよね!」
深呼吸は、良いだろう。だが――――――
「貞治が、ヒーリング系の曲が胎教には良いって言ってたから、今日買ってきたんだよ!」
『ヒーリング系』――――――やはり、お前の日本語と俺の日本語の間には、大きな溝があるらしい。
、ラジオ体操はヒーリング系とは言えないと思うんだが・・・・・・」
できるだけ柔らかい口調を意識して言ってみると、は少し首を傾げた。
「そうかな?」
そう、だ。
「コレは俺が預かっておくからな。赤ん坊が無事産まれるまで」
コンポの上に乗っていたケースを開けて、取り出したCDをしまうと俺はそう言った。
「・・・・・・はーい」




翌日、玄関の扉を開けると、その先では某アニメのテーマソングが流れていた。


♪そーらーをじゆうにー、とーびたーいなー


「はいっ、たけこぷたーーーーっ!!」
神輿を担いでいるかのような腰の入った声に扉の向こうを覗くと、コンポに向かって座り、こぶしを高く突き上げているが居た。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ただいま」
今、俺とお前の間にはマリアナ海峡よりも深い溝が横たわっているような気がするぞ、
「ね、ね!今度はちゃんとヒーリング系でしょ?」
俺は、わかった。
曲がヒーリング系かヒーリング系じゃないかは、さして大きな問題ではないんだ。
、『安静』というのはどのような状態を示す言葉か、知ってるか?」
聞いた言葉には、即座に答えが返って来た。
「『静かに安心』」
ちょっと違うな。
しかし、惜しい。
「体を動かさず静かにしている事、だ」
そうだ。
『静かに』
それだけわかっていれば大丈夫だ――――――大丈夫、な、はずなのだが。
「頼むから、安静にしていてくれ」
の肩をポン、と叩くと俺は今日もまた。
「コレは俺が預かっておくからな、赤ん坊が無事産まれるまで」




そのまた翌日、玄関の扉を開けると、その先は静まり返っていた。
「・・・・・・?」
室内に足を踏み入れると、ソファーの上で寝入っていると―――――ソファーの下に積み上げられた漫画が目に入った。
一日中静かに漫画を読んでいたのか――――――偉いぞ、
起きたらすぐに褒めてやらないとな、と思ったのも束の間。
積み上げられていた漫画の、その見覚えのある表紙は―――――『は○しのゲン』。
そして、テーブルの上に散乱している本の山は『あ○たのジョー』で形成されていた。




「あ、貞治帰ってたの・・・?」
しきりに瞬きを繰り返しながら起き上がったに。
「明日からは、コレを観ていてくれ」
頼むから。
そう言って、紙袋を一つ手渡した。
「どうしたの、コレ?・・・・・・『隣のト○ロ』?」
紙袋の中身は、すべてジブリのDVDだ。
着替えてすぐ、駅前まで走って買ってきた。
ちなみに『魔○の宅急便』は入っていない。
店で手に取った瞬間、ほうきにまたがって「飛べるかもー」なんて言い出すの姿が、脳裏に浮かんでしまったからだ――――――




   *




ベランダから見える空。
は室内から引っ張ってきた椅子に腰掛けて、一心に空を見上げている。
「星、キレイだね」
安静に、と言った俺の言葉を守って、今日は一番星を見つけてもはしゃぐのは控えているらしい。
そんなの姿に、俺の目元も緩む。
晴天のまま陽が落ちゆく、7月7日の夕方。
去年までの実家の庭に植えられていた笹は今、このベランダの隅に立てかけてある。
色とりどりの飾りの揺れる笹には今年、一枚も短冊が飾られていなかった。
今年の願いは、ただ一つ。
『どうか、無事に産まれてきてくれ』
小さな願いを心の中で唱えながら、星を見上げた瞬間。
室内に電話のベルが大きく鳴り響いた。
「あ、電話!!」
俺が足を踏み出すよりも一瞬先に、勢いよく立ち上がったが電話に向かって走った。
――――――小さな願いの、行く末や如何に。










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