麦のように強くなれ!










それは、晴れ渡った日曜の朝。
いつものように朝食を作るの後姿を眺めていた瞬間に、到来した。
「うっ・・・・・・・・・・・・」
口元を押さえてうずくまった俺に、が気付き駆け寄る。
「どうしたの、貞治!?」
の声にも答えることができずに、俺はひたすらそれが過ぎ去るのを待った。
しかし、それはいくら待っても過ぎ去る気配はなく――――――――
「気持ち悪いの!?」
の必死の問いかけにも、答えることができない。
「大丈夫!?」
その問いかけには小さく頷いておいた。
放っておくと突拍子もない方向に思考を巡らせる
そのがこのまま放っておいた場合にしでかすであろう出来事と、その後始末に追われる自分が思わず脳裏をよぎったからだ。
「本当に・・・・・・本当に大丈夫なの?」
声だけで、今にも泣き出しそうなのがわかる。
だけど、今の俺にはもう一度頷くことはできなかった。
「気持ち悪いんだよね・・・・気持ち悪いときの薬、持ってくるからね?」
待っててね、と言ってパタパタと走り去る気配が――――――――急に止まったのを感じた。
次の瞬間、電話の受話器を取り上げるような音を聞き、俺は慌てて顔を上げた。
しかし、何もかもが遅かった。
俺に見えたのは、受話器を掴みボタンを押すの後姿。
そして――――――――




「もしもし!?貞治が妊娠した!!」




   *




「ご懐妊おめでとう、乾」
冗談とは思えないほど柔らかい笑みでそう告げたのは、先刻に電話で呼び出された不二だ。
「冗談はやめてくれ・・・・・・」
吐き気は不二が到着する大分前に治まり、それからはずっと落ち着いている。
大方胃もたれか何かだったんだろう。
俺が脱力した体を完全にソファーに預けてため息を吐くと、不二は面白そうに笑った。
「でも、君の奥さん―――――――相変わらずだね」
手元で開いていた『家庭の医学』をパタン、と閉じ、不二はキッチンの方へ目を向けた。
そこには三人分の紅茶を入れているが居る。
ポットを睨みつけながら、いつものように葉が開くタイミングを待っているのだろう。
こちらの話はまったく耳に入っていない様子だ。
「あぁ。あの劇的な思考回路は、俺には未だに理解しきれない」
俺のその言葉に、不二は小さく声を上げて笑った。




「お待たせ」
その声とともに、テーブルの上に三つのカップが置かれた。
「・・・・・・ごめんね、貞治。私が『自分で産んで』なんて言ったからだよね・・・」
俺の隣に座って俯くは、もうすでに俺が妊娠したものだと思い込んでいる。
「不二くんも、ごめんね。いきなり呼び出して・・・」
神妙にそう告げるを安心させるように、不二は微笑んだ。
「気にしないで。友人の一大事だからね、駆けつけるのは当たり前だよ」
不二はの誤解を肯定するわけでもなく、そして解こうとするわけでもなく、そう言った。
・・・・・・その顔は、非常に楽しそうだ。
「私―――――――」
が俺の両手に自分の両手を重ね、顔を上げた。
「頑張って働くから・・・・・・珠のような子を産んでね、貞治!」
決意表明のような力のこもった言葉を聞き・・・・・・・・・俺は脱力した。
、よく聞いてくれ―――――――」
俺は妊娠していない、と続けようとした言葉は、再び襲ってきた吐き気により中断された。
「貞治、大丈夫!?」
決して大丈夫ではないが、頷いておかなければまた予測不可能な事態が起こるかもしれない。
「だ、いじょう・・・・・ぶ、だ」
苦しい息の中、それだけ言って俺は目を閉じた。
「どうしよう・・・不二くん、つわりってどうしたら治まるか知ってる?」
「人によって様々みたいだから・・・・・・」
二人の会話を頭の端で聞きながら呼吸を落ち着かせていると、だんだんと吐き気が治まっていくのを感じた。
「もう・・・・・・大丈夫だ」
目を開けると、心配そうに俺を見つめるが居た。
そこで俺は、一つの可能性に気付いた。
・・・・・・今月、来たか?」
俺は自分の記憶を辿りながら、そう言った。
毎月中頃に来るはずのものが、確か月の終わりの今日になっても来ていないはずだ。
「アレ?・・・・・・・・来て、ないかも・・・」
壁に掛かったカレンダーを見ながら、が首を傾げる。
「じゃあ、妊娠したのは俺じゃなくて、お前だ」
辿り着いた結論を告げると、は不思議そうな顔をして俺を見た。
「つわりの症状というのは妊娠した妻だけでなく、そんな妻を持った旦那にも表れると何かで読んだ事がある」
そう言いながら、次第に俺の頬は緩み始める。
「あぁ、ここにもそう書いてあるよ」
テーブルの上に閉じていた『家庭の医学』を再び開いた不二が、ページを指で辿りながらそう言った。
「おめでとう、乾」
「あぁ、ありがとう。不二」
俺たちは、普段よりもいくらか緩めの笑顔で言葉を交わした。
その横では、が呆然としている。
「明日、休みを取って病院へ行こう」
そう声をかけると、は呆然としたまま小さく頷いた。




   *




俺とが朝一で向かった先は、幼い頃から世話になっている総合病院だった。
総合受付で保険証と診察券を見せ、『今日かかるのはどちらの科ですか?』と問われると、
は微かに震える声で『産科です』と答えた。
何度も通っているのに一度も足を踏み入れた事の無かった産科のフロアは、
受付開始時間とともに入ってきたというのに、すでに混み合っていた。
産科の受付カウンターで渡された問診票に必要事項を記入して、しばらく待っていると名前を呼ばれた。
予想していたよりも大分短かった待ち時間に、まだ心の準備が整っていなかったらしいが俺の服の袖を掴んだ。
「大丈夫だ」
俺が安心させるようにそう言うと、袖を掴むの手から少し力が抜けた。




『4週目ですね、おめでとうございます』
診察室で笑顔を浮かべた医者にそう告げられた俺は、頬を緩ませた。
俺とは対照的に複雑そうな顔をしていたに、医者は超音波写真を見せてこう言った。
『まだ小さくてよく見えないけど、あなたの赤ちゃんよ』
そして、その写真を見ながら医者と言葉を交わすごとに、の顔に笑顔が浮かび始める。
診察室を出る頃には、いつもと変わらない・・・・・・いや、いつもよりも明るい表情を浮かべるが居た。
総合受付の脇にある精算伝票投入口に伝票を入れ、5分ほど待つと自動精算機での支払いができるようになる。
俺は支払いを済ませて、売店に行って来ると言っていたを迎えに行った。




「何を買ったんだ?」
俺が売店に辿り着いた瞬間そこから出てきたは、紙袋を一つ抱えていた。
「『初めてのたらこクラブ』」
俺の問いにそう答えたが、紙袋を開けて中身を取り出した。
「出産までの色々な事が載ってて勉強になるらしいよ」
帰ったら一緒に見ようね、と言って笑うの手を引き、俺は駐車場へと足を向けた。




   *




「貞治・・・・・・ありえない」
帰りがけに立ち寄った書店で購入した名付け辞典をソファーに座り読んでいた俺は、のその言葉に顔を上げた。
は俺の隣で『たらこクラブ』の折り込み付録を広げて凝視していた。
よく見てみると、そこには『等身大の新生児』の写真が載せられていた。
右上には『生後1日』と書かれている。
「こんなの出てこないよ!!」
まずい。
病院でいくらか落ち着いたと思われたの頭が、再び混乱しはじめてしまったようだ。
「貞治、こんくらいって言ってたじゃん!」
そう言って、右手と左手を広げあくる日の俺を真似るはパニック状態だ。
「いや・・・・・・・・・・・・しかし、でかいな」
そのあまりのでかさに、俺は気の利いた言葉を口にすることもできなかった。
「出てこない・・・・絶対出てこないよ・・・」
俺は気を取り直し、泣きそうになりながら呟くの肩を抱いた。
「大丈夫だ」
即座に「大丈夫じゃないよ」という言葉が返ってくるが、
「俺もお前も出てきたんだから大丈夫だ」
強くそう言うと、は少し落ち着きを取り戻した。
「本当に?」
「本当に」
「絶対?」
「絶対、だ」
何度もそんなやりとりを繰り返した末に、はやっと立ち直った。
「貞治、私頑張るね」
自分自身にも言い聞かせるようにそう言ったが立ち上がり、こぶしを胸のあたりでギュッと握り込んだ。
そして―――――――――――

「麦のように強くなれ!!」

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・なぜ今出てくる言葉がそれなのか。
俺にはわからないが、出典は『は○しのゲン』である、ということだけ補足しておこう・・・・・・。










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